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2012年02月01日

●大きな便り、ありがとう

 外国から娘が2才の孫娘を連れて、遊びに来てくれました。久しぶりに会う孫は可愛く成長していました。
 日本食が合わないのか、長旅の疲れなのか食欲がなく、どうしたものかと思っていたら「この2日間、便が出ないのよ」と娘が言い、やっと2日目、真っ赤な顔で「ウーン」と頑張って、大きな便を出しました。
 娘が「よく頑張ったね。お利口さん、ありがとう。ありがとう。」とオムツを替える姿を見て、食べる時は、美味しい美味しいというが、食物が喉を通ったら、排便までの間は何の御礼も申していない。便は臭い、汚いとか思ってしまう。
 日々の大きな便り、小さな便りに、どれ程、お礼を申せてる自分であったかを感じさせられる光景でした。毎日食物を頂く時のお礼の何倍も排便にお礼を申さねばと教えられたバアチャンでした。
バアチャン

2012年01月01日

●思うこと・願うこと

 人は不満があったり、自分の考えたこと通りには、なかなかうまくいかない。人に何か頼んでもやはり、自分の思っていることとは異なる。充分に自分の思っていること、願っていることが満たされることは大変難しい。
 しかし、いろいろと思うこと、願うことの積み重ねによって、自分の考えたことに少しづつでも近づくのではないだろうか。また、願っていれば、何とかなるというものでもないが、日々、自分自身が努力すること、がんばることで、その思いや願いに近づきおかげが頂ける。そして、自分自身のことだけでなく、人のことも同様に、いやそれ以上に思ったり、願ったりすること。人のことを、自分のこととして思い願えるように、日々祈らせて頂くことが大切ではないだろうか。

太田 昇

2011年12月01日

●思い合う心

 さだまさしさんの「案山子」(かかし)の曲が流れると、亡き兄を思い出す。毎年暮れも押し迫ると、「元気か?年は越せるか?」と電話してきた。戦時中、極寒地での捕虜生活で性格が荒くなったと母は嘆いていたが、生を受けた時頂いた魂の真髄は変わる事が無いと思う。

 以前大勢の人の集まりの中に、腰の曲がったお婆さんがいた。兄は「年はなんぼへ」と尋ねた。「80歳です」「そげえなるへ」と驚いていた兄は、「あんた気を付けて帰りなさいよ」と、まっ白い歯を見せ、肩をぽんぽんと叩いて、笑って送り出した。お婆さんの顔はみるみる明るく元気になり、腰を伸ばし「へい」と言って嬉しそうに帰って行った。兄の、相手を思いやる心がストレートに伝わって相手も元気になり、兄の本質を垣間見た気がした。

 暮れに向かい、最近の暗いニュースの多い中で、せめて元気な心で、さだまさしさんのような温かい気持ちを込めて声を掛けたい。「お元気ですか?…」        岩田 幸子

2011年11月11日

●人が人を助けるのが人間である

3.11以降、人が生きる上に、多くの学ぶべきことがありました。

震災をある方は、「天罰だ」と言います。別の方は、「神様は、人の難儀をどんなに悲しんでおられるか・・・」と信心で考え、また、「今、何が自分にできることか?」と自問自答し、それぞれに、自分の生き方を考え直す日々が続いていると思います。

その中で、ディズニーランドのスタッフの、とっさの素晴らしい対応を耳にし、感心させられました。
「お客様をいかに安心させ、安全に誘導できるか」というプリンシプル(物事の本質)に心を配り、当時いた7万人のお客様を、無事に避難させたとのことです。
1万人のスタッフの中の、9割はアルバイトだったそうですが、彼らが想定外の災害に対してとっさに判断し、スピーディーに行動できたことに驚きを覚えます。

例えば、
①地震直後、ディズニーランド内にアナウンスが鳴った。これまでは、「夢の国」を実現するために、一切の館内放送を行うことがないのに、お客様の動揺をおさえ、安全を確保するために実施した。
②店舗内の販売用のぬいぐるみを無償で配り、防災頭巾がわりに頭を守るよう訴えかけた。
③当日は雨混じりで、気温は10度前後と冷え込んでいたため、お土産用のビニール袋や段ボールを配り、寒さをしのいだ。
④同じ姿勢のままだと体に良くないので、柔軟体操の指導を行った、など。

かねて、 「人が人を助けるのが人間である」と、教えて頂いていましたが、私はその言葉の表面しか理解していませんでした。
あのディズニーランドの事例から、その言葉の持つプリンシプル(本質)にまで、心配りが出来ているだろうか、と改めて気付きを得ました。
想定外のことは、人生日々起こりうることですが、適切な行動がとれるよう判断を下さなければなりません。震災を機に、「人が人を助けるのが人間である」との本質を究めつつ、人間としての責任感を持って、いつ、どんな時でも、人のお役に立つ行動を、自発的に起こしてゆきたいものです。それぞれの責任を自覚して行動することが、人も助かり自分も立ち行くことに通じていくと信じるからです。
人という文字のとおり、人は、支えあって生きて行くのですから・・・       金子 惠

2011年10月01日

●神様の愛し子

 先日、東京・渋谷のライブハウスで放火未遂事件が起こりました。未遂で終わり、本当に良かった…と、神様に御礼申し上げました。そして現場に居合わせた方々は、とても怖い思いをされたでしょうし、その方々が事件の後遺症などで苦しまれないように、神様にお願いもさせていただきました。そして容疑者の方が、このような事件を起こしてしまい、私はとても悲しい気持ちになりました。
 自ら命を絶たれる方も後を絶ちません。事件を起こす人も、自殺する人などみんな、神様のかわいい大切な愛し子です。わが子がこのようなことになり、神様はどれほど悲しまれておられるだろうか…、と思うと胸が痛みます。何か事を起こす前に神様と出会っていたら…、苦しい胸の内を親身に聴いてあげられる方がいたら…と思わずにはおれません。
 一人でも多くの方が、天地の親神様と出会い、御慈愛にふれて、救われていくことを願ってやみません。そして、少しでも神様のお役に、人の助かりのお役にお使いいただきたいです。         

田林 信彦

2011年09月04日

●実力の錯覚

昨今は、携帯電話やインターネットが当たり前の世の中になってきました。
かく言う私も、手紙や本の辞書を使う事より、携帯電話のメールやインターネットで調べ物をする事が多いのであります。
メールだとすぐ相手との連絡が出来、調べ事をする時もインターネットを使えばすぐ意味やニュースに辿り着きます。
これだけ見れば便利なのですが何かと依存してしまい、手紙を書く時には漢字がすぐ出てこなかったり、インターネットで調べた後、しばらくたって必要な時に覚えてなかったりと・・・。
当たり前の様に依存をしている物をふと手放した時に、不甲斐ない自分に気付くのです。インターネット等は決して自分の実力では無いのではありますが、自分の実力の様に錯覚してしまうわけですね。
すぐ楽なほうに逃げてしまう私ではありますが、改めて自身の実になる努力をさせて頂こうと思い、本の辞書を広げて手紙を書いたり調べ物をしたりと葛藤しております。
確かに効率は落ちますが、一つでもお役に立たせて頂ける様な自分にならせて頂きたいと思います。

sakusa

2011年08月01日

●暑さのおかげ

「クールビズ」という言葉は近年なじみがでてきたが、今年はそれをもっと進化させた「スーパークールビズ」が推進されている。
地球温暖化対策の一環としての従来の取り組みに加え、今年は節電の必要性からより徹底することが求められている。冷房時の室温28℃、暑さをしのぐための工夫、軽装など、自分の周りを見渡してもかなり浸透していると感じる。
会社でも扇風機はもちろん団扇や扇子も大活躍である。皆が汗をかき、汗をふき、涼しい風でしのぐ。少し時代が逆戻りしたような感じもするが、なかなか心地よくも感じる。
考えてみれば効率性を方便に、有難いことばかりの日々が「万事当たり前」、と慎みをわすれて過ごしていたことに気づかされる。夏の日差しや暑さに汗をかける身体、暑さをしのぐ人々の知恵も、すべて天地からのいただきものであると、改めてかみしめる機会をいただけたように思う。

(N-ksk)

2011年07月01日

●地球カレンダー

 地球の歴史を1年間にまとめた「地球カレンダー」をご存じだろうか。
 46億年前に太陽系第三惑星である「地球」が誕生したのが、1月1日0時。
 「陸」と「海」が形成された41億年前が2月9日。
 光合成を行うバクテリアが登場し、酸素が生成された27億年前が5月31日。
 動植物が「陸地」に進出した5~4億年前が11月28日。
 人類が誕生した20万年前が12月31日23時37分。
 産業革命が起き、化石燃料の消費が始まった250年前が12月31日23時59分58秒。
 私たちが享受している現在の便利な生活は、地球カレンダーから見ると、1年間の終わりのたった2秒間に集約されている。それは、地球が46億年かけて蓄積した資源エネルギーを食い尽くしていることをも現している。
 人智に及ばない自然災害を恐れる私たち人類ではあるが、地球から見たら、たった2秒間で地球を蝕む人類のほうが、よほど脅威かもしれない…。

(k-starfield)

2011年05月13日

●本当に制御すべきものは

 未曾有の東日本大震災から二ヶ月が経った。このたびの大震災は地震や津波といった天災だけでなく、原発事故という言わば「人災」も絡んでいるだけに問題は複雑である。

 私は今なお日々、報じられている原発関連のニュースを見る度に思うことがある。それは私たち人間の心の中にも、それこそ原子炉の燃料棒のようにコントロールをしていれば問題はないが、一歩間違えれば限りなく暴走し害をまき散らす要素を誰しもが持っているということである。すなわち我情我欲であったり、責める心、憎む心、恨む心、見下す心、…等々である。

福島第一原発では連日、作業員の方たちが劣悪な環境の中、まさに命がけで原子炉の制御・安定に向けて闘ってくださっている。大げさかもしれないが、私たち一人一人も、命がけでお互いの心の中にある放射能のような要素を鎮め、コントロールしていく精進を怠ってはならないように思う。 

(kubomi)

2011年04月15日

●消費社会からの転換

酔わないお酒。昨年のヒット商品は、お酒であっても酔わないものだという。

まさにこれまでの商売では「捨てさせる、無駄遣いさせ、贈り物とし、蓄えさせ、抱き合わせで、きっかけをつくり、年齢性別別に単能化したり、セカンドとして余分に、予備として余分に、流行遅れの旧式に思わせる、賢い消費者だと思わせる」であります。

東日本震災後に、人々が熱狂して物がないと買いだめしたり、不要なガソリンを入れるために何人の人が並んだのか計り知れない。更には、原発事故の恐怖から放射能被害を通り越して野菜や魚の買い控えに走っているのはこれまでの商売にのせられた行動そのものである。

大震災後では通用しない。

今からはこのような考え方を改めて、我先に自分の不安を取り除くような行動するのではなく、心を静めて必要最小限の生活は何かを考えて、なるべく迷惑をかけない無駄な買い物や無駄な電気の浪費はさける生活へ転換をはかるべきである。

難が起こった時こそ、神様が望む身の丈にあった行き方をして、難儀に取らず気に病まないように、溢れる情報に溺れず冷静に行動することが必要なことではないかと思う。

仲井金行

2011年02月05日

●いつの間にか…から、人の助かりへ

この街みんなの東京は、朝も8時を過ぎた頃、人のうねりが押し寄せます。
地上の人から地下の人、そこにも人が溢れます。

みんなせっせと、今日の職場へ。
その黙々とした姿は、いつの間にかの‘競争’です。
いつの間にか自分も人も、同じ速さで歩いています。

先日、カンボジア旅行から帰国した方が、「地雷に足をやられた人に沢山出会いました」と話してくれました。

今、私たちが働く場所は、まさに平和なこの東京。平和の恩恵を受けています。
職場にも、見えない‘地雷’はあるものですが、本物まではありません。

日本でも、火山の噴火や、大雪や…。地元の人の身になれば、難儀のさ中におられます。
兄弟の、誰か一人が苦しめば、親は不憫で眠れません。

‘競争’も、平和の恩恵あらばこそ。
今日の日の、いつの間にかの‘競争’が、皆、人の助かりにつながりますよう。

畑  淳

2010年12月02日

●掃除をする

 年末は大掃除の時季だ。物を整理をするだけで大変だが、大掃除となるとなお骨が折れる。そんな時、「毎日掃除をしているのに何でこんなに埃が溜まるのだろうか。」とつい思ってしまう。

 図書館には虫干しがあり、航空機では日々の手入れの他に、定期的に全体の分解掃除をしなければならない。普段きちんとしていて、見落としがなくても、日々使っていると知らず知らずのうちに何かの澱が溜まるからだ。

 その意味で年末の大掃除は大切だ。しかし、もっと大切なのは心の大掃除だろう。日々悪い心を持っていないようでも、この機会に心の大掃除をしたいものだ。

 金光教祖は、『座敷、押し入れ、板の間にちりが積もるように、人間は我欲のためにわが心にちりが積もる。わが心わが身が汚れないように、心と体の掃除をするつもりで、今月今日で信心せよ。』と教えてくれている。この一年の心の大掃除もしたい。

岸井茂

2010年11月01日

●大いなる力


 今年の秋は、記録的な猛暑の夏の影響を受けて、葉もの野菜の出来が悪く、市場に影響がでているとのこと。また、この夏の海水温が例年より3~4度高かった陸奥湾では、養殖のホタテ貝がほぼ全滅だそうだ。その他、頻発する台風の大型化やゲリラ豪雨等の異常気象からも明らかなように、近年、自然の猛威が私たちの生活に大きな影響を及ぼす機会が急激に増えてきた。
 いずれも地球温暖化の影響によるものだそうだが、地球の平均気温がたかだか数度上昇するだけで生死に関わるほど、私たち人間は地球の微妙なバランスの上に生きており、奇跡的とも言える状態の中にいることがわかる。それは人間の力の及ばないことであり、人間の力を超えた働きによるものと言えるだろう。
 私たち人間は地球全体から見ればちっぽけな存在であり、そうした地球の上に生かされて生きているという、謙虚な気持ちをどこまでも忘れてはならない。

宮田和弘

2010年09月01日

●「巡り来る四季は天地からの贈り物」

今年の夏は尋常ではなかった。真夏日、熱帯夜、はたまた猛暑日が何日も続いた。しかし、涼しい日もあるし、暑さが続くといっても1、2ヶ月。また、日照りの中での雨の1日は恵みの雨、朝夕欠かせない水やりもしなくて済む。根っこの隅々まで水がいきわたった草木はどんなにか潤ったことだろう。
 秋が訪れ、実りや紅葉を楽しませてもらえる過ごしやすい季節を迎えた。暑い夏があったからこそ、実りの秋となるのである。さらに、冬もまた厳しい寒さから春になり、草木の芽吹きや美しい花々をめでる喜びを味わうことが出来る。

 天地自然の四季の移り変わりは、今も昔も変わりなく続いて来ている。そして、四季に応じて食べ物や自然を楽しませていただいている。巡り来る四季は天地からの贈り物、そういう中で生かされていることに、喜びと感謝の気持ちを忘れないようにしたいものだ。


浅野誉喜子

●「巡り来る四季は天地からの贈り物」

今年の夏は尋常ではなかった。真夏日、熱帯夜、はたまた猛暑日が何日も続いた。しかし、涼しい日もあるし、暑さが続くといっても1、2ヶ月。また、日照りの中での雨の1日は恵みの雨、朝夕欠かせない水やりもしなくて済む。根っこの隅々まで水がいきわたった草木はどんなにか潤ったことだろう。
 秋が訪れ、実りや紅葉を楽しませてもらえる過ごしやすい季節を迎えた。暑い夏があったからこそ、実りの秋となるのである。さらに、冬もまた厳しい寒さから春になり、草木の芽吹きや美しい花々をめでる喜びを味わうことが出来る。

 天地自然の四季の移り変わりは、今も昔も変わりなく続いて来ている。そして、四季に応じて食べ物や自然を楽しませていただいている。巡り来る四季は天地からの贈り物、そういう中で生かされていることに、喜びと感謝の気持ちを忘れないようにしたいものだ。


浅野誉喜子

2010年08月01日

●「謎を解き明かせ」


我らが生活する「地球」には遙か遠き昔から「太陽」と「月」が大きく関わってきた。

「太陽」は我ら、生きとし生ける者には無くてはならぬもの。「月」は我らの生活の深きところでは大変に関わりを持つとも感じるが、我らの「知識」ではあまりに窺い知れぬ部分が多い。しかし何とはなしに「月」に対する畏敬は我ら古来より持ち続けている。何とは分からないが、やはり何か関わりを感じさせられるという意識。「太陽」が光なら「月」は影。然して、その「月」は生きる物に不思議な力を与えてくれるもの、人の生命の根源に深く関わるもの、それを作用するもの、と置く。

そこで意を述ぶれば、江戸末期のある人が「日天子様のお気障りは干魃と暴風、月天子様のお気障りは地震なり」と残されてありますが、「太陽」と「地球」の関係は今は広く社会に知れ渡る中、「月」と「地球」の関係は未だ少なく、その働きは「引力」「人の生命の根源に根ざすもの」ぐらいの「域」から出ていないように思います。願わくは爾後の人、その謎を大いに解き明かして貰いたいと願う。
鈴木肇

2010年07月01日

●美味しくいただく心

 病気で入院した時の病院食は、余り美味しくない、不味い不味いと良く聞きます。
 病気により塩分やカロリーの制限や食材が限定されたりと作る方も仕事とはいえ大変です。食べる方は、普段より食事時間が早かったり、病気のために体調も不良なわけで、薬の影響や発熱に慣れない環境で味覚も案外変化しています。
 しかし糖尿病のこともあり、どうしても残さずに目の前の食事を食べなければなりません。
 なんとしても有り難く頂けるように願いそうなろうと思い実践したこの方は、入院して食事する時は毎回毎回「あなたのためにスペシャルな料理を一流シェフが腕によりをかけて作ってくれているご馳走。」だと思って食べるようにしていると、不味いと思っていた食事が2日3日とすると、だんだんありがたく、美味しく感じてくるようになってきました。
 一食一食が自分の身体を作り治してくれる原動力になってくれるんです。
「・・・何を飲むにも食べるにも、ありがたくいただく心を忘れなよ」(食事訓)
 是非あなたも入院されたときは、最高のサービスで出された一流シェフのあなたのためのスペシャルな病院食を美味しくご堪能ください。

(OKN)

2010年06月01日

●国を超えて

 待ちに待ったサッカーワールドカップ南アフリカ大会が近づいてきた。日本はベスト4入りを掲げて本大会に臨む。日本人なら誰もが日本を応援するだろう。日本戦だけを見る人も多いと思うが、私は全64試合の3分の2ほどの試合を見るつもりだ。世界最高の選手のプレーを見逃したくないからだ。先の冬季五輪でも皆自国の選手を応援したことだろう。ロシアでは成績不振でスポーツ担当相が大統領から叱責された。次の開催国でもあり、国の威信を懸けた大会だったからだろうが、オリンピック憲章第1章6には「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない。」と明記されている。国籍や国境を超えて、素晴らしいプレーには賛辞を送る。ワールドカップもそんな大会になることを願っている。

NNT

2010年05月01日

●葬式は、要る

 『葬式は、要らない』なる本が売れている。豪華な葬式、不明朗な葬儀費用、高額な戒名料などを批判している。誰もが疑問に思いつつ、慣例に任せてきたことだからこそ関心が高いのだろう。今では直葬といって病院から火葬場へ直行する事例が増えている。事情がある場合はともかく、死者を弔う儀式をしないことは問題視したい。更には死者が生きてきた間に受けてきた天地自然の働きに対して、遺された者が死者に代わって感謝する儀式を欠かすことはできない。それは、人間は生きても死んでも天と地をはなれることができないからだ。不景気でお金をかけたくないということと、しないということとは別である。質素でいいから、実意で心のこもった惜別の儀式を行ってほしいものだ。

田中信道

2010年04月01日

●『人生はエンドレス』

 生きる厳しさを切実に感じさせられる現代にあって、人生がテレビドラマのようであったら、どれだけよいかとよく思わされます。最近のドラマは一ひねりも二ひねりもあって、そんな単純な筋書きではないかも知れませんが、でも、いろいろ紆余曲折はあっても、最後は一件落着、ハッピーエンドの目出度し目出度しで終わることが殆どです。
 しかし、現実は、一件落着のその先がどうなっていくかが問題で、物事、成就してもそれで終わりではなく、そこから新たな問題を抱えることの方が多いのではないでしょうか。出産、入学、就職、結婚等々、目出度し目出度しの祝い事であっても、今までには経験のない問題を抱えて生きていくことになるのですから、ドラマのように目出度し目出度しと浮いていられるものではありません。
 私共の教祖の教えに、「氏子十里の坂を九里半登って、それで安心してはいけない。十里を登り切って向こうへ降りたら、そこで安心せよ。途中で気を緩めると、すぐに後へもどるぞ」とありますが、終わって終わらないのが生きるということで、人生は「エンドレス」であり、勝って兜の緒を締める生き方が大切だと思います。
原田 敏

2010年03月01日

● 「天地はいのちの源」


 国民不安調査(51項目のハザード※に対する・2008年1月31日~2月11日調査)では第1位は地震、第2位は地球温暖化、第3位はガンという結果が出ている。これらは広義に考えれば環境問題に立つであろう。
 今、私たちは過去の人々から未来の人々へ天地をつなぐために生活をしている。しかし、環境に配慮した生き方ができているのだろうか。新しい言葉で言うとサスティナビリティ(持続可能性)な生き方をしているか。地球社会を持続可能なものへと導いているのか。
 物を求め続けるのではなく、物の不足に不満を抱くのでなく、物を大事に大切にしていた時代のすばらしい知恵は見習いたい。
 身近な日常の生き方の基本に自分の身の丈を自覚し、エコも学びながら楽しく生き生き暮らすことが次世代にも伝わっていくことにつながるものと信じていきたい。
〔河童〕
 ※hazard:危険。災害。不測の事故。

2010年02月01日

● 「受験と神様」


 今受験シーズンを迎えている。この時期は受験生やその家族が神様に合格祈願のため参拝する。とりわけご利益が高く頼りがいのあるといわれる神様には、多くの人々が集まる。
 自分の力に100%の自信が無いとき、神頼みの心が生まれ易いし、人間の自信など当てにならないところがあるから、自分を超えた大きな力を信じて頼ることは当然である。
 神様に向かい、どの位の気持ちを込めて祈願しているかは人様々であろうが、その祈願を受ける神様の方にも心があり意志があることをご存じだろうか。
 これが解ると頼み方も変わってくる。受験間際にあわてて頼む人もあれば、半年一年も前から頼む人もある。
 そして結果が出る。自分の願い通りになった時は、喜んでまたお礼に参拝する。願い通りにならなかった時はどうするのか。自分自身の反省もあるが、神様を恨んだり無視したりする人も多い。しかし頼んだからには、心や意志のある神様に、あらためて心を向けてみることが大切である。
 また、受験に合格して学校に進学させてもらったのであるから、祈願成就のお礼はもちろんであるが、さらに大切なのは、その学校を卒業したときの神様への心である。
 合格の祈願やお礼の時の気持ちの込め方以上のお礼の心を捧げることができれば、神様は大変喜ばれる。
 人間を超えた大きな力を頂くためには、神様への向かい方の工夫が必要なのである。
藤原務正

2009年12月01日

●「だましだまし」

 ご先輩の方が自分の体を「だましだまし」使うというような言い方をしていた。
 つまり、「だましだまし」というのは、対話の仕方にふれた言葉だと思う。
 「だましだまし」体を使うというのは、自分の肉体と対話をすること、年をとると自分の体と相談しながらでないと、うっかりしたことはできない。
 これは、自分の体力を考えるというのとはちょっとちがう。自分の体を動かしながら、その体にきいてみる、体の言うことをききながら、体を動かしてみるということだ。
 だから、だますのではない。「ここまで動けたのだから、もうちょっと動けないだろうか、やっぱりダメか、ではこの程度にしておこう。でももう少し動けるのじゃないか」こんな調子を「だましだまし」だと思う。
 「だましだまし」が一番必要なのは自己反省、つまり自分との対話なのかもしれない。


yatsunami

2009年11月01日

●たいせつな地球


今年の8月1日、宇宙飛行士の若田光一さんが「137日と15時間」という長い宇宙滞在を終え無事に帰還しました。記者会見で「ハッチが開いて草の香りがシャトルに入ってきた時、地球に迎えられた気がした。」と語っていました。天地の恵みにあふれた地球は、いつでも私たちをやさしく包み込んでくれています。
最近は異常気象による集中豪雨で山崩れや土石流、洪水などを引き起こし、たくさんの方々が被害にあわれています。便利さや利益を求めて、必要以上の開発をすることで生態系が壊れ、被害を大きくしているのではないでしょうか。
これからの私たちは多少の不便を受け入れて、自然と共存する生活をして、天地の恵みにあふれた地球をたいせつに守っていかなければならないと思います。
                             terurin

2009年10月01日

●若い人へ

還暦を節に若い頃を振返ってみると、恥ずかしいことばかりで、
何一つ分っていなかったなぁと思います。いま仕事にしている教会
の仕事も、教会に生れた子供の運命とあきらめてやってきたことが、
とんでもない間違いで信心して神様のおかげを知ってみると、人は
皆、信心をしにこの世に生れてくるようなものだと分るようになりました。
若い頃には想像も出来なかった心の広がり、心の喜びです。
なぜそれが分からなかったのか、どうしてあんなに抵抗したのか
を反省してみますと、私達が物事を理解して、「わかった」という
時の分かり方の違いがそうさせたのかも知れません。

 つまり、知識で理解して「分かる」分かり方もあれば、子を持っ
て知る親の恩のように体験を通して「分からされる」分かり方もあ
るということです。実は、信心や宗教の話は、この「分からされる
話」が多く、これが知識を中心にした若い人の考えに馴染まないの
かもしれません。

覆水盆に返らず。今にして思えば、若いころ聞き逃した話をもった
いなく思うばかりです。若い人に聞いてほしいと思います。「知識」
は体験という栄養を通して「知恵」という働きになることを。そし
て信心に心を向けてほしいと思います。これが六十になったささや
かな悟りです。

川 上 功 績

2009年09月01日

●自然との境目をなくせ

 芸術家でもあり、科学者でもあるレオナルド・ダ・ヴィンチは、自然界には境目が無いという発想から、絵画にスフマートという物の輪郭を描かない技法を取り入れました。

近年、地球温暖化が騒がれています。またこの夏は冷夏と言われました。
これらの事柄に我々はどう取り組めばよいのでしょうか?
 私はまず、これらを自然界の問題として捉える前に、自分たちの事として、自分と自然との境目を無くすことから始めなければならないのではない?と思っています。

 環境問題には人間生活が一番大きく影響します。ですが、この捉え方こそが、我々が自然とは違う存在だと思っている証拠なのです。我々の生活は自然界の外にあるものではなく、人間という自然の生き物が進化を遂げた自然界の現象の1つだと認識しなければなりません。

 我々が自然との境目を無くした時、環境問題の解決だけではなく、もっと美しい天地の恵みを受けられるようになるのではないでしょうか?
 なぜならダヴィンチが自然界の如く輪郭無くし、初めて描いたのはあの有名な『モナリザ』なのですから。

長谷川兆伸

2009年08月01日

●ありがとう


去る7月19日、第27回金光教東京平和集会が、皆様のお祈り添えのもと、無事に行われた。
今年は、2年ぶりに「子どものひろば」が復活し、「こころの平和」をテーマに、本を題材にしての話し合いやビデオ観賞、すいとん作りを通して、神様や人に感謝すること、神様に願うことの大切さをみんなで学んだ。

最後に「朝目覚めた時、顔を洗う時、食事をする時、靴を履く時、トイレに行く時、お風呂に入る時など、当たり前のようにしているけれど、決して自分一人の力でしているのではなく、一つひとつに『神様ありがとうございます』とお礼を言えるようになりましょう。そして自分でも努力しながらみんながそのような心になれるように神様に願いましょう」と締めくくった。

「ありがとう」。分かっていてもなかなか言葉にしたり、思ったり出来ないことが多い。
ふと気づけば、何事も我が力でやっていると思う自分がいる。このひろばの企画を通して、逆に私自身が学ばされたように感じる。この日をきっかけに自分自身の心を見つめなおし、感謝の心を大切にし、周りの人、世界中の人々がそのような心になるように、神様に願わせて頂きたい。

 藤原真美

2009年07月01日

● 「心のウイルス対策は!?」

先々月より新型インフルエンザウイルスなるものが、猛威を振るい世界を騒がせました。
今では騒動もだいぶ落ち着いてきたようですが、ひと頃は、やれ対策だ予防だと大騒ぎでした。 私の周りでも必要以上に不安や心配、あるいは不平や不足を口にする人がおりましたが、それらは「心のウイルス」と言っていいかもしれません。 げに気をつけるべきはこの「心のウイルス」の方ではないでしょうか。
ちょっとやそっとのことでは感染しない「心のウイルス」対策ソフトを備え付け、常に更新できるような状態にしておきたいと願う今日この頃です。
(kubomi)

2009年06月01日

●冬を送り また春が来て もう夏になり

 えらいことです。巷では新型インフルエンザやらの影響で「月光仮面」の真似をして、色々ないろのが売れて、しかも関西では品不足が生じたということです。今は情報の世の中で、情報を多く持っている人が物知り顔に色々と教えてくれてくれますがいかがなものかと、ふと立ち止まることもいるのではないでしょうか。インフルエンザが顔を見えないからといって、皆がみんな覆面着用になっちまうような世の中なんて正常とは思えませんよ。小生などは罹ったらかかった時のことと高を括っています。
 お隣のおとなりの国なんぞはまたぞろロケットやらミサイルやら核やら何か分かりませんけどやたらにブッパナしているようですけども、そういうイタズラをするガキンチョは仲間に入れてやればよろしいこと仲間外れにするから余計その存在感を誇示しようとするのであって、怖い、恐いとばかり思わないで「近かよるようにする」ことがいるのではないでしょうか。「逃げおけ、よけとけ、まわっておけ」ばかりの対応では埒があかないのではないでしょうか?いろいろ世の中の難しいことが多いわけですけれども皆小生ども人間が織り成している事共であって、こんがらないように、誰でも分かる様な世の中にしていきたいものだと思います。シンプル派として今の世の中難し過ぎ、住みにくく感じますが…。

夏志虎

2009年05月04日

●新型インフルエンザ流行の兆し



新型インフルエンザが世界的に流行の兆しをみせ、戦々恐々とした時代になった。

明治十二年(1879年)、全国的にコレラが流行したとき、大阪で本格的に布教を開始した初代白神新一郎師は「人を助けて己が助かるの御道 人欽(よろこ)べば神欽び給ふ」と、天下の台所と言われた大阪で、この道を広く伝えて悩みを救い助けることに邁進した。

そして立教一五〇年を迎えた今日こそ、世界中の人々が助かりたちゆくべく教祖様、白神先生ら直信先覚が、そして東京布教に命をかけた先人たちが残されたこのお道を世に伝え、お役に立つとき。
『御道案内』に書き残された「唯生(うぶ)のままなる信(まこと)一心を尽くすお道」。それで人は助かると白神師は説く。

今こそ、天地金乃神様が教祖生神金光大神様に「天下太平、諸国成就、総氏子身上安全」と御神願成就を託された願いを実現するとき。
神様に喜んでいただける私たちにならせていただきましょう。

(松本信吉)

2009年04月07日

●~~勝手ではすまない ~~


 多くの学校や企業で新年度が始まります。
 金光教には、何かを始めるにも、「日柄や方位は見るに及ばない・・・」という、重要な教えがあります。
 よく聞いてみると、「するのは勝手であると思い、神様にお願いをしないでする人は、お叱りを受ける」と、代わりにしなければいけないことを落しがちでした。
 私が、会社で働いていたとき、頭もいいが、人当たりも良い課長が上におられました。ご注意を下さるときも、常に穏やかな先輩でした。
 こちらはだんだんに慣れ、悠々と仕事ができるようになっていきました。
 ある時、私が、明日は有給休暇をとるというのに、忙しさにかまけて、とうとうその先輩に休むことを言いそびれてしまいました。同僚には全て断ってあったので、支障がない気になってしまっていたのです。
 今考えると、とんでもないことだったのですが、慣れというものは恐ろしいものです。
 当然、その翌日は、あらためてご注意を頂きました。
 神様と人間の間もかくの如しのようです。 A.H.

2009年03月03日

●がんばれ金光大阪

 いよいよ、今月末から春の選抜が始まる。うれしいことに金光大阪高校が2度目の出場だ。過去、春1回、夏1回の出場があるが、未だ甲子園で校歌を聞けていない。激戦区大阪の代表だけに、プレッシャーも相当あるのだろう。また、予選を勝ち抜くだけでも想像を絶するものがある。そんな中を勝ち上がってきたのであるから、堂々と胸を張って行進してもらいたい。

 金光新聞の3月1日号に、大宮教会の松本先生が書かれた文が掲載されていた。何でも、昨秋の選抜大会大阪府予選決勝で負けたのだが、金光大阪の応援団が、閉会式後に、自分たちが使ったスタンドだけでなく、球場全体の清掃をされていたのを見た方が、その姿に感銘を受け、HPに金光大阪を応援する書き込みあったという内容だった。

 私もこの記事を読み、あらためて思わされたことがある。

勝ち負けよりも大事なことがあるということ。私は、高校時代ラグビーをやっていたが、このことには気付いていなかった。勝った負けたですべてを決めていたように思う。

「できることを、するのではなく、させていただく」

するとどうだろう、今まで見えなかった大切な何かが見えてくる。

ちょっとした心の持ち方で、世界観が大きく変わる。

このことを高校球児、そして、彼等を応援する方々から教えていただいた。

今度の選抜では、球児だけでなく、アルプスから声援を送る応援団を応援したい。

2009年02月03日

●【常識は「チェンジ」されていくもの】


先月、米国で初めての黒人大統領が誕生した。 一昔前からすれば考えられないことである。

今ある常識や価値観は正しく永遠なものだとは限らない。 地球は丸い形をしていて太陽の周りをぐるぐる回っていることを、疑う人は今ではほとんどいないと思うが、これとても昔は想像もつかないことであった。

真実や本質は時として、私たちの常識や価値観とは相反していることがある。 今ある常識や価値観にとらわれない、柔軟な心で生きていきたいものである。
(kubomi)

2009年01月06日

●熱帯魚


家に熱帯魚を飼っている。娘が小学校の頃、金魚すくいで持って帰ってきたのが始めである。その内色々な金魚を飼ったが、なかなか難しい。すぐ病気になるし、死んでしまう。ランチュウや、オランダ獅子頭など、頭に脂肪をつけようと餌をやると、水が汚れる。

金魚の水槽の掃除も大変だ。60㍑の水を換え、フンの掃除と付いた汚れを取らなければならない。
常時水を回転させ、水を綺麗にしている濾過槽も掃除しなければいけない。その水を巡回させているモーターも休み無く動くため負担が大きい。家の中でも連続して回転し続けているのは、水槽のモーターくらいだろう。

金魚より熱帯魚より、強い魚は無いものかと探している。水の汚れに強く、温度差に強い魚は、なかなかいない。熱帯魚でも30度を超すと、湯だって死んでしまう。15度を切ると、冷たくて死ぬ。
閉じた小さな世界で生きていくことは、大変だ。
最近、玄界灘に熱帯魚が泳いでいるという。南極北極の氷が溶け暖かくなってきている。

人間も、少しの温度帯の中にしか生きられない。
どうすることが、より良い世界になるのか、考えてみたい。
(suna)

2008年11月01日

●御本部のある幸せ



御本部があるということは幸せである。

言うまでもなく、岡山県金光町は安政6年(1859年)、教祖様が立教神伝をお受けになり、取次に専念された地であり、金光教にとっての聖地である。

聖地とは「特定の宗教、信仰にとっての本山、本拠地、拠点となる寺院、教会、神社のあるところ、またはその宗教の開祖、創始者にまつわる重要なところ、あるいは奇跡や霊的な出来事の舞台となったところをいう。そこに参拝することは、信者にとって特別なことであり、それへの巡礼は信仰生活にとって特別な意味を持っている。」(ウィキペディアより)とあり、キリスト教のローマ、イスラム教のメッカなど、各宗派の聖地には一生に一度でも参拝したいという人もあるという。

教祖様は「金光大神は参ってたずねる所がなかった。」と言われているが、我々はいつ参っても御本部でお取次がいただけるという幸せな信仰を持った信奉者なのだと思う。

しかし教祖様はこの教えの続きに「あなた方はおかげを受けて遠路の所を参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」とも言われている。身しのぎとは「専門家に頼んで拝んでもらう信心から脱して、自分で拝んでおかげを受けること。」だそうだ。

ある先生は「御本部にお参りしたときは御礼だけ」と言われている。私はお願いもしてしまうが、四代金光様がいつもおっしゃっていたように、御礼を土台にさせていただくことが大切であろう。

来年の立教150年生神金光大神大祭には一人でも多くの方が御本部に御礼参拝のおかげを蒙って頂きたいと思う。(松本信吉)

2008年10月02日

●言葉は前向きに

光輝高齢

 「後期高齢者」という表現は、だんだん定着してきましたが、そもそもは、大変失礼な感じの呼び方ではないでしょうか。
 人間の尊厳を損なうこのような呼称が、なぜ機械的に承認されてしまったのでしょうか。また、その表現が取り下げられず、皆だんだん慣れてきてしまっていることは、お年寄りを大切にしない、冷たい社会を思わせます。
 一方、その対象者の中からは、「後期高齢」などと言われっぱなしではすまされない、という自己防衛も始まっているようです。どうせ、そう呼ぶなら、「光輝高齢」と書き、光り輝く人生をめざそう、というお話を聞きました。

  でも、と言わない生き方
 その方が、お医者さんから、「顔色も良くなられて結構ですね」と言われたとき、即座に「でも、腰が随分曲がってしまいました」と答えたそうです。すると、お医者さんが「余り『でも、でも』と言わない方がいいですよ」とご注意をされました。
 「光輝高齢」を目指すからには、この「でも、あそこが良くない」「でも、まだまだ」という、言わば不足心を持たないように努めなければだめだった、と改めて気付かされた、とのことでした。

  アメリカ人の前向きな挨拶
 「でも、・・・」という返事は、よくあるパターンですが、これは、日本的な会話様式から来ているところもあります。人からの褒め言葉には、謙遜するべき、というのが、ムラ社会をなす日本で、美徳となっているからでしょう。
 問題は、それが、美徳であると同時に、いつの間にか、不足心につながっているという微妙な点です。
 アメリカ人に「Are you fine?」と聞くと、「Of course!」という返事がよく返ってきます。良いところを、確かに良い、と常に強調しようとする彼らの態度に、しばしば「前向きだな」と感心させられます。
 日本人であっても、また「光輝」であるためにも、言葉は常に前向きに発っするべし、ということでしょう。

畑 淳

2008年09月01日

●日本の夏 感謝の夏

 4年に1度の祭典が幕を閉じた。記念大会だった夏の甲子園も終わった。泣いた人、笑った人。それぞれの夏が終わりを告げた。

 私は小学生の頃にサッカー、中学でバレーボールと水泳、高校から大学、社会人にかけてラグビーと様々なスポーツをやったが、負けて悔し泣きしたことは何度もある。しかし、勝ってうれし泣きした経験がない。ただの性分かもしれないが、この夏の五輪と高校野球を観ていて思った。勝って泣くってどんな気持ちなのだろうかと。勝って泣くというのは、その勝利に対するうれしさはもちろんだろうが、今までやってきたことが報われたことに対する喜び、乗り越えてきた山が大きければ大きいほど、その苦労があって今があるのだと実感できた瞬間に涙は出てくるのだろう。

 そう思うと、どのスポーツに対してもそれほどの苦しい思いをしたことがない。その時はきつかったのかもしれないが、今思えば、五輪や高校野球を見れば、あの時、自分はまだやれたんではないかとの思いが湧く。そう、勝って泣けるほどの努力をしていなかった。

 今回の北京五輪では、勝った人も負けた人も、今回で現役を退く人もこれからはばたこうとしている人も皆、「周りへの感謝」を口にしていたように思う。険しい道を行けば行くほど、己一人の力ではどうにもならない、周りのサポートがあって今自分が最高のパフォーマンスができる、つまり「あなたあっての私」ということを実感されているのだろう。

 私はアスリートではない。ではないが、周りあっての自分だということは何もアスリートに限ってのことでもない。普通の人々もまた、周りに支えられて自分がある。普通の暮らしの中ではなかなか気付けないことかもしれない。だが、普通に暮らしていけている者こそ、そこに気付かせていただかねばならないのではなかろうか。

早稲田 菊川

2008年08月01日

●【一人一人が「世界平和」の金メダリストに】


いよいよ北京オリンピックが始まる。しかし民族間の抗争やテロの予告など不安要素も山積しており、華々しさの陰で何やら物々しい様相を呈している。
オリンピックは単に勝敗や栄誉を競うばかりではなく、お互いの存在を称え、認め合い、地球は一つ、私たち人類は一つという意識を高める世界平和の象徴でもあるはずだ。
今月は終戦の月でもあり「世界の平和とは」ということを考えさせられる。

広辞苑を引いてみると「平和」には次の二つの意味がある。

 ①やすらかにやわらぐこと。(用例)「―な心」「―な家庭」
 ②戦争がなくて世が安穏であること。(用例)「世界の―」

「平和な心」が「平和な家庭」を生み出し、それが「世界の平和」へとつながっていく。一口に「世界の平和」と言っても、その源泉はやはり、お互いの「心」にあることを思う。
いよいよ私たち一人一人が「平和」に向けての代表選手となって金メダルを目指していく以外にない。(kubomi)

2008年07月01日

●扇風機



 先日、家の壁掛け扇風機を、新しいものにした。もう40年以上使っていたものであるが、快調に動いていた。最近のテレビ番組で、長期使用の扇風機が発火したという事故を報道していた。長期間の使用で、内部のコンデンサーが絶縁不良を起こし発火し、火災になったものである。
 家の扇風機は、20年程前に、片方の支えが折れ、接着剤で貼り付け、薄い鉄板で補強してあった。
 発火する前には、焦げ臭くなったり、煙が出たりするのだろうが、テレビで電圧を上げたとはいえ、発火するところを見ると自分の所も心配になる。
大事に長年使うのは良いが、火災になったのでは、元も子もない。経年変化は必ず起こるが、安全に、長年使うことはできないだろうか。
 大事に、大切に、安全に、安心に、長く使うことを考えてみたい。(suna)

2008年06月06日

●冬を送り また春が来て もう夏になり


前回の小欄で東京オリンピックに触れ、北京オリンピック以降の危惧される事どもに就いてその罪の面をいかに僅少に押さえるかという事にも関わる人々は考えていかなければならないと述べました。

 またぞろと申しては叱られるかと思いますが、ここで東京が名乗りを上げる必然性がありやなしやを問いたいと思います。東京一極集中とか、東京はでたがりやだとかとかく地方都市からは揶揄される面があります。この件では他の国内の都市も名乗りを上げた経緯もあり、その時点でお譲りすればよかったと思いました。もう東京はいいんです。もう少し言うと日本で開催することはないと思います。

 世界の国々で、都市で行いたいという意思があって未だに未開催の所は幾らでもあると思います。

 東京オリンピックはあの時点(1964年)では開催の価値は大いにあったと思います。

 国際オリンピック委員会もあらゆる観点から公平に何処の国の、何処の都市で開催するのが最も相応しいのか、英知を結集して決定していただきたいと存じます。スポーツが単純に好きな小職としては、ある先輩が言われた「勝ち負けに拘わらず両方の、あるいは個人競技においては出場すべての競技者に拍手を送りたい」に則り、まさに「平和の祭典」になるように開催してほしいと念願いたします。

   夏志虎

2008年05月01日

●教会は老若男女がふれあう場

 核家族化が進み、世間ではやむを得ない場合を除いて、世代や価値観が違う人との接触を避けようとする人が増えたように思う。そんな世の中で、教会は老若男女がふれあうことのできる現代社会の希有な空間の一つだ。

 子供の頃、毎週末教会に参ってきていたKちゃん(当時4~5歳)は、Yさん(当時80代)と、とても仲良しだった。Kちゃんは、とてもやんちゃな女の子で、Yさんは生真面目でよく御用をされるおばあさん。

あるときKちゃんがYさんの事を「バカ」とからかった。すると、Yさんは「バカ、バカ、バカ、バカ!」と顔を真っ赤にしての応戦。しかし、これを端で見ていると、とても微笑ましかった。

Yさんは数年前に他界し、その葬儀に、高校生になったKちゃんも参拝。この話をしたら、「そんなこともあったっけ、でも私のことをよく可愛がってくれた。大好きだった」と話していた。

今、Kちゃんは社会人となり、立派に接客業をこなしている。老若男女どんな人とでも上手に話ができる彼女の人柄は、幼いときの教会参拝で培われたのかもしれない。

かつては、町や村といった地域社会がその役割を担ってきた。いま、その働きを見直そうと地域活動を再び活性化しようという動きもあるが、遅きに失した感は否めない。

改めて教会は、そんなふれあいができる場所であり、大人も子供も共に育つ場であることを再認識し、心身ともに元気な人が育ち、世のお役にたってほしいと思う。

(松本信吉)

2008年04月10日

●本当の意味

みにくいアヒルの子、というお話がありますね。灰色で、他のアヒルに似ていないので、みんなからいじめられました。後になって、本当は美しい白鳥だったことが分かりました。

鼻のない猿のお話もあります。千匹の猿の中に一匹だけ鼻のある猿がいました。残りの九百九十九匹が、その一匹の猿を笑ったそうです。どちらがおかしいのでしょうか。

私は、先生から、こんなことも教わりました。

世間では、十月のことを神無月と書き、十月は神様がいなくなると言うのですが、あれは間違った「民間語源」だ、ということでした。十月は、実りの月であり、神様に感謝をする「神の月」なのだ、というのです。カミナヅキのナは、現代のノという意味で、無いという意味ではないからです。

その証拠に、手の中心をタナゴゴロ(手の心)と言い、海への出口をミナト(水の戸)と言う、と教えられて、私はなるほど、と思いました。

六月の呼び名も然り。あれは水無月ではなく、梅雨が来る水の月なのです。

正しいものを見極める方法は、多数決ばかりではありません。
畑淳

2008年03月03日

●「我慢」と「辛抱」



「我慢」と「辛抱」、そこに違いはあるのだろうか?と、ふと考えたある日、辞書で調べてみた。

「我慢」
1耐え忍ぶこと。こらえること。辛抱。
2 我意を張ること。また、そのさま。強情。
「辛抱」
つらいことや苦しいことをがまんすること。こらえ忍ぶこと。

辞書で引けばその意味に大して変わりはないように思える。どちらにも「我慢」「辛抱」の語句が引用されている。
言葉としてはその意味にたいして違いはないとしても、その中身はどうであろうか。
私の持論ではあるが、簡単に言うと「我慢」とはあくまで自分のために耐えるということ。自分自身から出た辛さ(欲)を制するということ。
「辛抱」とは、自分のためではなく、むしろ人のため、周りのために読んで字の如く辛さを抱えこむということ。
抱え込むということは心の大きさ、深さを示しているのではないだろうか。
どんな問題であろうとも「我慢」するのではなく「辛抱」をさせていただきたいと思う今日この頃だ。(菊川)

2008年02月05日

●【リサイクルは人として当然の義務】



 「偽装ブーム」とも思えるこの頃、最もやり切れなかったニュースは再生紙表示の偽装だった。 この表示を確認してトイレットペーパーや葉書、諸々を購入することは「自分にもできるせめてもの取り組み」と思い心を配っていた。 世界有数の資源消費国家としてあまりにも情けなくやりきれない思いだ。

 とは言え企業が嘘をつこうと「自分にもできるせめてもの取り組み」を投げ出してはならない。 人間が日々生きていくということは資源を消費していくことでもある。 蟻のような私たちの取り組みでも、この天地にお世話になっている者として当然あるべき行為だからだ。

 すべての生き物は循環している。 命の営みそのものこそ「リサイクル」なのである。 その輪から人間はいつしか離れていき、挙げ句自分たちの足元を揺るがしている。 私の住んでいる区で4月から「資源」(ゴミではなく、あえてこう呼ばせてもらう)回収のあり方が変わるらしい。 これからの人間の本当の進化は「リサイクル・エコロジー」を高らかに謳うまでもなく、息を吸うように当然かつ自然な行為としてなされていくことにある。

 金光教の教祖様の言葉に「国のため、人のため、わが身の上も思い、万物を粗末にせぬように、真の信心をせい」とある。さあ、早速新しくなった「資源」の分別の仕方を覚えることにしよう・・・!!

(kubomi)

2008年01月17日

●プチプチ断熱の家

 ここのところの原油高で、灯油も値上がりしている。数年前の倍くらいの感じだ。
 そこでクッション材での断熱を考えた。透明なポリエチレンで作られ、指で押すとプチプチと破れるクッション材だ。家は築50年程の家なので、多少見栄えは悪くても、効率の方を優先した。ガラス窓に両面テープでクッション材を貼り付けプチプチ断熱の家にした。
 一番効果が現れたのが、お風呂の窓。冬の寒さを随分防いでくれる。今までは、寒くて身体が冷えていたが、プチプチ断熱してからは暖かさが持続する。少しはエネルギー消費が抑えられ、不必要な出費も抑えられる。
 冬の寒中、各地で寒稽古など寒に関する行事がある。寒さに耐える身体もつくりたい。
 天地の道理に基づくエコ生活を少し考えようと思っている。

(suna)

2007年10月20日

●夏を送り また秋が来て

 小職が中学2年生の時、東京オリンピックがありました。印象に残っている場面と言いますか、選手の顔を思い浮かべます。実際に競技場に行く機会にも恵まれました。国立競技場に行き、真近かで女子80メートル障害走の依田さんが競技直前のウオーミングアップをしていて、アクロバット的な柔軟体操をしていました。凄いことができるんだなぁーと驚いたものでした。男子体操も頑張りました。重量挙げの三宅兄弟も凄かった。大松博文さん率いる女子バレーも見事でした。「ヒートリィーが追っている、ヒートリィーが追っている」「円谷頑張れ、円谷頑張れ」ということで大声援を送ったものでした。
 
 高速道路が出来、白黒テレビからカラーテレビへ、所謂高度成長路線まっしぐらの様相でした。
 
 戦後復興はこれで成った。この路線で突っ走れなんてものでした。その一方で起きるであろう様々な矛盾、格差そんなものには目もくれず・・・でした。
 
 今北京オリンピックを迎えんとしている中国さん、わが国土も人口も桁違いだし、政治経済体制も違いますが、それだけに一事を終えた後のリアクションも相当なものが予想されています。国威発揚だけでなくて、人民のため、大願の氏子のためになるような世の中にしていきましょうお互い様に・・・。

                                             夏志虎

2007年09月01日

●教話を肴に…

「東京の教会では直会の席で教話に関する話をあまりしませんね」九州出身のある青年教師からこう言われて考えさせられてしまった。

九州の教会では大祭の直会などで御神酒や食事をいただきながらも、その日の祭典後の教話について信心談義が尽きないという。

翻って、東京の教会ではどうか?もちろん教話についての話が出ることは出るのだが、いつのまにか一般的な話題に変わってしまっていることが多いのではないか?

金光教の直会の場というのは、やはり信心の話をすべき場。しかも、せっかく祭典後には必ず教話が行われているのだから、もっともっと、その教話を基にして「今日の話をどう感じたか」「信心はこうあるべきではないか」「私はこう思う」などの話が展開されることが望ましいはず。

私は都連の教話担当の御用をさせていただいているが、先月、私が教話に行かせていただいた教会では、教話の後、お茶をいただきながら、信者さん達と教話に関する話を語りあうことができて少しほっとした。

月例祭、大祭に関わらず、その日の教話を題材にお茶やお酒をいただきながら信心の話をすることを神様はきっと喜んでくださるはずだと私は思う。 (松本信吉)

2007年07月01日

●大空を見上げよう 

  
 「智恵子は東京に空が無いという」

 昭和の始め、高村光太郎が書いた詩です。

私は子供の頃、山に囲まれた田舎から、東京に出てきて、東京には山がない、ということをしきりに恨めしく思っていました。
 事実、東京では、山どころか、土も自然の緑も、地方に比べれば大変少なく、わずかにでもあれば、それは大変貴重に感じられます。目につくものは、建物と車と人ばかりです。
 けれども、そんな東京の真っ只中にいて、私は、ビルの間から、見えるだけの空をじっくりと見上げます。
 わざわざ見ようとしないと、案外見ていない空です。今日が曇りか晴れかくらいは常にわかっていても、雲の流れ、その大きさ、その静けさには、気がつきにくいままで生活をしているのではないでしょうか。
 私は、外に出るたびに、あの巨大な建物より遥かに高いところで、ゆっくりと動く大空を見上げ、日々、居ながらにして、高原に遊び、天地の間に包まれます。  畑 淳

2007年06月01日

●自転車に乗る時はゆっくりと

日本には、3人に2台の自転車がある。自転車は道路交通法上は、車道通行が原則で、歩道は原則走れない。しかし、危険などから「通行可」も多い。95年~05年で、自転車と歩行者の事故は、5倍近く増加し、死亡事故も多い。歩行者を押しのけて自転車が走るのはマナー違反だ。お年寄りにぶつかりながらの通行など、もってのほか。
警察庁は、歩道を走る自転車に対する取り締まりを強化した。お年寄りや、子供が安全に歩ける歩道が必要に思う。
また、自転車の駐輪で、車椅子で通れない道が多い。先日も、母を車椅子に乗せ、道路を通ったが、道を考えなければならない程、歩きにくい。車椅子で楽に通れる歩道が良い。
自分のことだけ考えて、自転車で走り、止めているようだ。自転車だけのことではないが、まわりを思い、人を大切に、いつもゆとりを持って、ゆっくりと行きたい。(TY)

2007年05月01日

●温故知新


昨秋、必修単位である世界史等を履修していない高校がたくさん見つかり大きな社会問題になったが、私は、今、金光教の首都圏布教の歴史をあまりにも知らない自分自身に愕然としている。
いよいよ首都圏布教120年の節年が明年にせまり、都連やフォーラムでは120年のイベントや刊行物編集などの取り組みがはじまっている。私もそのプロジェクトに参加させていただいているが、東京教会初代の畑徳三郎先生をはじめ、首都圏布教に力を尽くされた先覚先師の方々がどのようなお働きをされたのか、ほんの一部の事しか知らない。
果たして、先師らの命がけの布教の歴史をろくに知らない者が「そんなイベントをしても意味がない」「集会という言葉自体、時代遅れ」「お金ばかりかかる気がする」などと言う権利はあるのだろうかと自問自答している。
歴史はいろいろな見方ができるのは当たり前の事だが、そのベースとなるべき基本的な事柄は少なくとも学んでおかなければ「未来」を語ることはできないのではないか。
まずは『あつまの道のいしすゑ』から読み返してみようと思う。 (松本信吉)

2007年04月01日

●冬を送り また春が来て

 大相撲春場所、春高バレー、センバツ、世界水泳、J1リーグ、プロ野球開幕等スポーツの春が到来しました。それぞれの個人競技にしろ、団体競技にしろ満を持して晴れの舞台への登場です。そこまでにどれだけの基礎体力をつけたか、レベルが上がったか、冬場の各人の努力がガチンコぶつかり合うわけですから、見ている方は楽しいわけです。

 当職も高校時代は水泳部に所属し、神宮大会を目指したものです。今は神宮プールが取り壊されてなくなりましたが、屋内プールのあまりなかった時代で、学生スイマーにとってメッカ的な存在でしてあこがれたものでした。冬場は基礎体力の養成と、屋内プールへ出かけての泳ぎ込みで本格的シーズンに備えたことでした。
 いかに早く泳ぐかということがテーマでしたから、先輩かたがたはいろいろな手を使って記録を伸ばすことに腐心していました。
 その一つが、自己ベストをどこまで伸ばすかということで、昨日の自己ベストを今日ぬりかえさせるまで練習は終わらないというものでした。ですから懸命に泳ぐわけです。なかなか昨日の自己ベスト記録が出ないと何回もチャレンジさせられるわけです。
早く練習を終わらせたいから頑張るわけです。するともうベスト記録は塗り替えたのに「まだ破っていない、もう一回」といじめのような形でさらに泳がされるわけです。もう余力は残っていません。こん畜生と思って最後の力を振り絞って泳ぎ切ると「よっしゃ、上がっていいよ」とプールから上がることが許されるという練習方法でした。
 それで各人の記録は着実にアップしていきました。努力すればある程度のところまでいくと言うことで、なかなかいいアイデイアを考えついたものだなと当時は思ったものでした。
 本当は記録よりその努力した汗が尊いものだということを後で知りました。

                           夏志虎

2007年03月01日

●誇り

 先日、久しぶりの里帰り。すると、私のすぐ上の兄もたまたま里帰り。彼は福岡に暮らし、家庭を持っている。私は東京の為、普段の付き合いといえば年賀状を交わす程度。たまたまとはいえ、久しぶりに兄弟で語らう。里は温泉の宝庫。「久しぶりに温泉でも行くか?」と、二人でいそいそと温泉へ。客もまばらな露天風呂。互いに空を見ながら話し込む。聞けば、兄は今の仕事に満足してないとのこと。小学5年生になる息子を持つ彼は、息子に同じ仕事をしてほしいとは思えないと言う。
彼曰く、「自分がどんな仕事をするにせよ、息子に継いでほしいと思えるような仕事をしなきゃな・・・世間体じゃないんだ。俺自身が自分の仕事を好きにならなきゃ、誇りを持てるような仕事の仕方をしなきゃいけないんだよな」
彼は自分に言い聞かすように満天の星空に向かって呟いた。
その仕事をするだけで誇りが持てるのではない。その仕事とどれだけ向き合うことができるか、それが自分に誇りをもたらす。
私は、「兄貴も変わったなぁ」と思いながら、しばしの休息を満喫した。

菊川幸四郎

2007年02月01日

●傾向と対策 

 かつて、大学受験の勉強をしていた頃、参考書の一つに、大学別『傾向と対策』シリーズがありました。入試の傾向を把握し、それにそった勉強をする、という「傾向と対策」が印象深く思い出されます。

 会社に入ると、職場には、調査部門と実行部隊がありました。マーケティングと営業、研究所と工場、それらは、いずれも、「傾向を把握して対策を打つ」の関係にあります。

 私たちが、神様と向き合うにも、けいこを重ねるうちには、自ずとこの「傾向と対策」の要素が浮き彫りになってきます。
 信心をして何がわかったか、と聞くと、ある先師が、「神様のお働きを頂かなければ、人間には全く力がない」ということがわかった、と宣言されました。そういうこの世の実態を明らかにして、その実態に添った真の祈りを実践する、これが信仰の上での、「傾向と対策」だということを思うのです。
 そして正しい対策には、相応の結果も生まれるのです。         畑 淳

2007年01月01日

●お神酒をいただく

 四神様のご理解の中に、

 「酒は飲みようで、憂いの種とも、また喜びの種ともなるものである。祭り、正月、祝い、節句といって、人も体をつくる時はあるけれども、あまり飲み食いが過ぎると、「ああ、ちょっとやり過ぎた」「具合が悪い」ということもある。病が医者や薬で治り、作物が肥や耕作でできるものなら、神信心するものはいないのである。」

 ご本部のお正月の直会所において、平成19年より、従来の「御神酒」は、昨今の社会状況を考慮し、「御神水」に変更しての対応となります。
 
 ご本部の対応も時代の趨勢から、自動車での参拝が主流に変わってきたこと、世の中の実態に即しての対応であると思う。
 このことを事なかれ主義と取り、憂いの種となるからと何でもやめていると、とるべきではない。
 逆に、これをあらためて「御神水」を「御神酒」としても、落胆することなく有難くいただき、喜びの種としていただきなおすチャンスととらえていきたい。
                                          (なかいかねゆき)

2006年12月01日

●早寝、早起き、朝ご飯。

広島県尾道の小学校で「早寝、早起き、朝ご飯」という生活習慣運動を推し進めています。2年程前にこの運動をする前は、子供達の偏差値は50程であったのですが、現在は60位になっているそうです。
子供達にとって、夜早めに寝て充分に睡眠をとり、朝早く朝日とともに起き、しっかり朝食を食べ、お日様と共に暮らす生活が、頭にも、身体にも、心にも、良さそうです。
金光教の教祖様は、「天地の道理」をといておられます。天地の御働きを自分の中に頂き、健康な生活を、させていただきたいものです。
(山口隆信)

2006年11月01日

●金魚の葬儀

先日、4歳の娘が夏祭りですくってきた金魚が亡くなったので、教会の庭に埋めて娘とささやかに葬儀をした。
このときマンション住まいの子供達の場合はどうしているのだろうかと思い、子を持つ何人かの親御さんに聞いてみた。「公園に埋めた」「子供にはお母さんがお葬式したからねと言って処分した」などの答えだった。「だから金魚すくいはあまりさせたくない」という声もあった。
実際、我が家でも金魚がきた翌日から、水槽やエアポンプを買いに行ったりということになり、それでも弱い金魚は亡くなってしまい「葬儀」ということになった。でもこれは小さな命でも大切にするということを子供に教えるよい機会であったと思う。しかし、都会の住環境では難しい面があるのも実際である。
参拝者の子供達には大きなペットなどは難しいが、金魚くらいであれば「教会の庭で葬儀をするよ」と声をかけるようにしている。
世の中では凄惨な事件があとを絶たず、その度に「命の大切さをわかっていない」というコメントが聞かれるが、子供が成長する過程で飼っている虫や魚や小動物の死、あるいは家族や近しい人の死を経験する中で、命の大切さがわかっていくということがあるはずである。その時々にささやかであれ、「弔う」ことの意味を教えていくことは、教祖様が「かわいいと思う心が神心である」と言われる「神心」を育てるためにも大切なことだと思う。
(松本信吉)

2006年10月01日

●夏を送り、また秋が来て

とうとう早実硬式野球部が夏の甲子園を制しました。
当職の住む町の近くに東京大学硬式野球部の野球場がありまして、子どもの頃はそこが東京都の夏の甲子園へ向けた予選会場の一つになっていました。
今のようにあちらこちらに野球場がなく、そこは狭いながらも屋根付き、フェンスありのミニ神宮球場のような形をしています。
当時、早実のエースで4番の王貞治選手が春のセンバツを制し、夏の予選でその野球場にやってきました。私の眼に焼き付いていますのは、豪快なホームランを右翼芝生席にたたき込んだシーンであります。この人が後の世界の王選手になろうとは・・・夢のような現実のことでありました。
真夏のドラマ甲子園が終わりましたら、夜空のはるか彼方太陽系惑星の仲間から、冥王星が除外されたという「国際天文学連合」の決定が報道されました。
私どもの子どもの頃、「スイキンチカモクドッテンカイメイ」と覚えさせられた記憶と、未だに諳じれる懐かしき惑星であります。今から76年前に発見されたそうですが、その冥王星と同じぐらいの惑星がいくつもあることが、この度の決定になった一因だそうです。
当職などは「なぜ除外する!」と叫びたい方の人間ですが、発見した人の未亡人の人は「・・・・・・驚いたけれど悲しんではいません。夫が生きていれば、科学は進歩するものだと理解を示すことでしょう・・・・・・」と。夫人の一言を読み、秋の夜天空を眺めつつ、雄大なる気概を持ちたしと星空に呟きました。
(夏志虎)

2006年09月01日

●涙は心の洗浄液

人間は泣くという行為をします。他の動物が、人間と同じ事をするかは知らないのですが、わが家の猫などは、風邪をひいたり、よその猫と喧嘩をして、涙を流している姿はよく目にします。牛などが、涙を流す映像もよく目にします。それらは、「目の表面を守り乾燥を防」いだり、「角膜(黒目)に栄養を与える」ためだと聞きます。また、「ゴミやばい菌などの進入を防ぐ」ためにも、涙は出てきます。
では、涙を流して泣くという行為は、それだけのものなのでしょうか。そうではないと言うことが、最近の研究で分かってきたようです。それは、ストレスを発散させるには、一番の特効薬であるということです。泣くという行為が、日頃色々な事を抱えながら、ストレスを募らせている現代人の心を無心にし、頭の中を空っぽにしてくれるからだそうです。つまり、涙を流して泣くということは、現代に汚された私達の心を、綺麗に拭ってくれる洗浄行為なのです。
映画のPRでも、「この映画は本当によく泣けます」と、笑い顔で紹介している理由が、何となく分かった気がしました。もしペットや動物たちが、ストレス解消のために涙を流して泣きだしたら、さぞ、日本は涙の洪水が起きてしまうのではないかと思うことしきりであります。

羽祖太郎

2006年08月01日

●「ありがとう」と「すみません」

心から「ありがとう」を言えるようになりたいと思う。
簡単に思えるがこれが難しい。
相手に感謝の意を伝えるときに、あなたなら何と伝えるだろうか?
多くの人が頭をひょいと下げ、「すみません」と言うのではないだろうか。あまり親しくない相手の場合なら尚更で、目上の人の場合なら妙にかしこまった堅い言葉になってしまう。
冷静に「ありがとう」と「すみません」、二つを並べてみれば全く正反対の言葉とわかる。
例えばついつい答えてしまうのは、
・ 落とした物を拾ってくれた人に答えるのは、「すみません」
・ 道や列の順番を譲ってくれた人に答えるのも、「すみません」
・ 思いがけなく親切にされたときに答えるのもこれまた、「すみません」
確かに、感謝・ありがとうの意味合いを込めての言葉もあるだろうが、活字にしてしまうと違和感がある。これが日本語の難しいところだ。どんな言葉を使うにしても、使う人の心が大切で、自分の心と切り離して、上辺だけの言葉では何の意味がないし、それに慣れてしまうことは、日本人の感性を鈍らせる。
相手の事を思いやり、心からの感謝を言葉に込めるのが大切ではないだろうか。

今は亡き父から、大学の入学祝いに一冊の本をもらった。
それは「万葉集」だった。
その中の、一首に鉛筆で印が付いていた。
「磯城島(しきしま)の 大和の国は 言霊の助くる国ぞ ま幸くありこそ」つまりは、「(磯城島の)大和の国は 言霊がはたらいて幸いをもたらす国」という意味(確か…)。更に直訳すると、「言葉は生きていて、自身が発する言葉で、幸いをもたらす国、日本」という感じ。近年、愛国心を理屈っぽく語る人が多いが、その前に私たちが話す日本語の本当の使い方や感じ方を改めて考え直す必要があるのではないだろうか。私は、この繊細で美しい日本語を大切にしたいと考える。感謝と謝罪の言葉がごちゃ混ぜにならないように、誤解のない素直な日本語を意識したい。

まずは、「ありがとう」と「すみません」…それぞれ本来のあるべき使い方をし、精一杯の「言霊(ことだま)」を乗せ発したいものだ。(ハル)

2006年07月01日

●「慢心が大けがのもと」

毎年、この時期になると思い出すことがあります。
当時、大学生であった私は、ウインドサーフィンを趣味としていました。
まだこの頃は、サーフィンのようにメジャーなスポーツでもなく、ボード一式も高かったことから、あまり人数的にも多く定着していなかった。その為、車にボードを積んで走っていると、非常に目立ち、周りからも注目されたものだった。
そんなある日、友人と連れだって鎌倉の海にウインドサーフィンを楽しみに行った時のことです。天気も良く、海面も穏やかで、更に海風であったため、最高のコンディションでしたが・・・やがて海の怖さを知ることとなりました。
ウインドサーフィンは、文字通りセール(帆)で風を受けて進むスポーツです。と言うことは、風が全く吹いていない状態だと、前には進まないのです。
調子よく沖に出たまでは良かったのですが、急に風がピタッと止んでしまい、岸に戻れなくなってしまいました。
どれだけの時間が過ぎたでしょうか。やがて、急に強い陸風に変わり、海が荒れだし、気がついたときには岸が見えなくなるほど流されていました。腕には多少なりとも自信があったのですが、悪戦苦闘しているうちに、かなり沖まで流されてしまったのです。
幸いにも、通りすがりのヨットに乗せてもらい、事なきを得ましたが、ヨットが通らなかったらと思うと・・・。
金光教祖は「慢心が大けがのもと」と教えられています。自分では、上手い、出来ると、有頂天になっていたのでしょう。まさに、腕を過信しすぎた結果の出来事でした。
まもなく各地で海開きです。後悔のない、楽しい夏にしたいものです。
(小笠原)

2006年06月01日

●「侍」と家族

まもなくサッカーのワールドカップ・ドイツ大会がはじまる。今大会、日本はどこまで勝ち進めるか興味深いものである。
先日、23人の「侍」が選出され、スポーツ紙などでは、一次リーグの相手国となるブラジル、クロアチア、オーストラリアとの戦力分析、勝算がどこにあるかなどの話題が連日書かれている。
「侍」と言えば、象徴的な存在として宮本武蔵がいる。その『五輪書』に「敵になりて思ふべし。」とあり「言うまでもなく、相手の立場に立って考えることは重要である。ここでいう相手とは、ビジネス上の敵・味方の両方と考えたい。」とある本に解説されていた。
勝敗もさることながら、相手の立場に立って考え、「侍」は「侍」らしく戦ってほしいと日本人の多くが期待しているはず。
かつて金光新聞の取材で松木安太郎さん(当時ヴェルディー川崎監督)の話を聞いたことがある。「私は家庭ではケンカをしません。グランドに出れば、相手も味方もみな敵のようなものですから…」と答えられていたのが印象的だった。
今春、WBCで日本野球チームが奇跡の優勝を遂げ、イチロー選手の活躍、王監督の名将ぶりが賞賛されたことは記憶に新しく、その「侍」たちを陰で家族がどう支えたかなども報道されていた。
もちろん日本だけではない。相手チームの選手たちにもそれぞれ家族の支えがあるはずだ。サポーターの力はとても大きいと言われるが、どの国の選手たちにとっても最強のサポーターは家族であろう。
翻って私たち自身の仕事や生活を充実させるためにも、家族や支えてくれている人たちへの感謝を忘れてはならない。
さあ、いよいよワールドカップ。がんばれ!日本!
(松本信吉)

2006年05月01日

●蘇る天地 また春が来て

また春がやってきました。また春を迎えることができました。いよいよ春だ!
人によって、春を迎える感慨・受け止め方は色々だと思います。年の初めは一月から始まりますが、季節は春夏秋冬が順序で、春から始まります。何事にも順序があるものです。
「春は梅で始まり、山吹で終はる」と申します。花が咲くにも順番があり、それを人間は愛でるものです。今は文字通り百花繚乱の相を呈しています。様々な色の、様々な種類の花々がその美を競うように咲き乱れています。
私の住む家の近くにある神社では「つつじ祭り」が開催されています。そこの境内のつつじ苑がちょっとした首都圏の名所となっていて、大型連休には首都圏各所から、観光ツアーバスが大通りに連なり、通りはリュックを背負った人々で占拠されます。地元の商店街、露天商はかき入れ時を迎えるのです。
私の子どもの頃には、そのつつじ苑になった場所は格好の遊び場所であり、上から滑って降りる丘陵の形をしていました。その場所に目をつけて、つつじの苗木を3000本植えられ、一大つつじ苑に変貌させたのです。
3~4年前からそのつつじ苑の中に入るのには入園料をとっているそうです。それでも人々は大勢やってきます。この季節そのつつじ苑に行けることで、春の到来のよろこびを満喫しているのでしょう。
(夏志虎)

2006年04月01日

●よーい、ドン

桜咲くこの季節は、なにか新しいことが始まるような予感がしてきます。寒かった季節とは違い、心はウキウキ、やる気が漲ってまいります。そして、今までの古いものを脱ぎ捨て、新たなスタート「よーい、ドン」の季節でもあります。
新一年生が母親と手を繋いで登校する姿。いかにも初々しく感じられます。これからの学校生活を謳歌する子供達。その背中に背負わされた大きなランドセルは、どこか不安と期待がいっぱい詰まっているようにも見受けられます。
「不安と期待」は、新小学生に限りません。社会人一年生にも言えることでしょう。スーツ姿がまだ板に付いていない若者達。彼らもまた、「不安と期待」でこの厳しい社会に旅立っていくわけです。
私達は、未だ見ぬ世界に旅立つとき、そのような「不安と期待」感はつきもののようであります。その「不安と期待」感が、いつしか消失し、マンネリと惰性の人生にならないことを祈りつつ、彼らの背中を、そっと押してあげたい気持ちになるのは、私が年を重ねたせいなのかも知れません。数十年前を思い出し、「初心を忘れないように」心を引き締めたいと、彼らを見守りつつ、願うことしきりであります。
(羽祖太郎)

2006年03月01日

●「目には見えない『何か』」

先月、17日間にわたって開催されたトリノ五輪が幕を閉じた。
スポーツ選手の多くは、短い選手生活の中で、才能のピークを知ると同時に限界も知るといいます。それは、自分自身にとって紛れもなく嘘のないギリギリの世界のことである。
勝負の世界に生きる人達は、自らの肉体・精神を極限まで鍛え、追い込んで、少しの可能性を信じ、常に現実と向き合う…限られた人間だからこそできることだ。人には、それぞれの生き方があって、メダルが取れても取れなくとも、勝ち負けを度外視しても大切で尊い「何か」がある。観戦者である私たちは、目に見える結果以上に、目には見えない「何か」を意識した時に、その生き方を知り学ぶことができる。
皆さんは、限界ギリギリの所で勝負(努力、辛抱、決断)をしたことがあるでしょうか?ちなみに私は「あれがギリギリだった…」と、胸を張って言えることはできません(苦笑)
便利な時代だからこそ不便を意識し、生身の人間の可能性を見いだして行くことが、何よりも大切と思う今日この頃です。
(ハル)

2006年02月01日

●「あんばい」

普段私たちが使っている言葉の中には、雅楽に由来する言葉が多く見受けられます。
例えば、ちょうど良い具合であることを「あんばいが良い」などと言います。漢字では「塩梅」と書かれ、塩と梅酢の加減の良いことの意味にも使われます。雅楽でも篳篥(ひちりき)の奏法の一つに「塩梅(えんばい)」というのがあり、指の押さえ方を変えずに、吹き方の加減一つで音の高低を変えて吹く奏法で、その滑らかな旋律が一つの特徴となっています。
篳篥でこの塩梅が上手いくととても心地よい演奏となります。そこで気持ちの良い事を「あんばいが良い」と言われるようになったとも言われています。
昨今では、凶悪な事件や事故などが、テレビや新聞の紙面を賑わせています。
人と人、人と神様との関係も「あんばい良く」行きたいものです。

(小笠原)

2006年01月01日

●「だいだい」

お鏡餅をお供えして、お正月をお祝いされた方は多いかと思います。
しかし、このお鏡餅の意味をご存知の方は少ないと思います。大小2個の餅を丸く平たく作って、これを重ねて供えました。2個重ねたのは、日月を表し「一重ね」と呼びます。平安朝の時代より 正月と六月は歯固めといって鏡餅を食べました。1月20日には女の鏡の祝いといって、元旦に 供えた餅を煮て食べました。20日に祝うのは「初顔(はつかお)祝う」の意味です。 これが「鏡開き」の発祥で11日にあらためられたのは将軍家光の命日が、月は異なりますが20日 であるため11日となりました。また鏡餅は人間の一番大事な心臓の形に似せたものとされ、且つ 米でつくったものは魂の象徴とされ、特に鏡餅はその代表的なものです。

また、鏡餅の上に橙(ダイダイ)をのせてお供えします。初夏に白い花が咲き、冬に果実が実る。果実の色は橙色(だいだいいろ)と呼ばれ、果実は冬を過ぎても木から落ちず、そのまま置いておくと二・三年は枝についているのです。こうして、一つの木に新旧の実がなるところから「代々(だいだい)」の名がついたそうです。また、果実は春になると再び緑色に戻ることから、「回青橙(かいせいとう)」とも呼ばれます。

金光教の教祖さまは、身代と人間と達者とが三代続いたら家柄人筋となって神さまの機感(きかん)にかなうとお教えになっています。せめてお正月だけでも、家族親族が集って、一同の健康のみならず子々孫々までの繁盛と無事達者を祈って、お鏡餅をお供えさせていただきたいものです。

(三宅道人)

2005年12月01日

●方言ブームと火の用心

毎年、年末は町の夜警に参加している。
八時すぎになると詰め所でおばちゃん達が、おでんやうどんの支度を始める。男たちも次第に集まり、コップ酒や甘酒を手に手に、ひとしきり親睦会をすると町会長が「そんじゃ、一回りするか」と声をかけ、2~3班に分かれて、拍子木や電池入りの提灯を持って町会内をくまなく夜回りするのである。道中、町の昔の話なども聞けておもしろい。
拍子木の乾いたカチカチ音を上手に出すのはちょっとしたコツがいる。私も十数年続けているので、さすがに最近はいい音が出せるようになった。
やがて古老の一人が「火の用心しゃっしゃりやしょう」と声を出す。粋な言葉だ。
「しゃっしゃりやしょう」とは「なさいませ」「いたしましょう」の意味だという。
「♪ねんねこしゃっしゃりませ」と子守歌にもあるあの言葉だ。
最近、若者の間では方言ブームが起きているというが、どのような時と場合にどういうイントネーションで使うのかまでを知っている若者は少ないだろう。「あいよかけよ」も岡山地方の方言だとは聞いているが、元々はどういうシチュエーションで使ったのだろうか。
ともかく古老は「火の~ヨージン」カチカチ「しゃっしゃりやしょう」とやるのである。しゃがれた 江戸弁と拍子木の音が耳に心地よい。私にはまだ「しゃっしゃりやしょう」と言う勇気はない。しかし、こういう伝統と文化は末永く町に残ってほしいものである。
さて、この年末は少し勇気を出してみることにしようか。

(松本信吉)

2005年11月01日

●都会、挨拶、無言

故障したバイクを引っ張って交差点を渡り、しばらく行くと改装中の商店があり、道が狭くなっていた。向こうから30歳ぐらいの自転車に乗った女性が来て、同時におなじポイントにいたった。すれ違いは無理だ。数秒お互い止まったまま動かない。
私がバイクを後ずさりさせ、譲った。そのご婦人は、何もなかったかのごとく、無言で会釈もせず走り去った。
同じ日、地下鉄の電車に乗り込み、中に進んだ矢先、ドアーがしまる直前に20歳ぐらいの青年が、2、3人の乗客を突き飛ばす感じでホームへ降りていった。「あっすみません」もなければ「あっ降ります」の掛け声もなしで無言で走っていった。
所用を済ませ、地下鉄のエスカレーターの左側に立っていたところ、ショルダーバックの女性が私の横を通り過ぎざま、ショルダーバックの角がぶつかってきた。「あっ」という声にならない声を出すも、何の反応もなかった。
帰りの地下鉄の電車の中で、私が電車の揺れで隣の男性の靴を踏んでしまい、咄嗟に「すいません」と言った。が、相手は応えてはくれなかった。
人と人との関係をよくするには、コミュニケーションが大切といわれている時代。思いやりのある言葉、マナーのあるひとつの態度が人をうれしくもさせ不快にもさせるということを、まざまざと実感させられた一日であった。

(夏志虎)

2005年10月01日

●便利さの中の人間性

パソコンで文章を書くのは当たり前のご時世になってきた。打ち慣れてくると、変換キーを押した後も、確認しないで次の文章を打ち続ける。やっと終わったな、と文章を読み返せばよいのだが、そのまま相手に送ってしまったり、プリントアウトをするからおかしな文章が生まれてしまう。
今年の「”変換ミス”コンテスト」(財団法人『日本漢字能力検定協会』)に、車で移動中に渋滞に巻き込まれた女性が、友人にメールで状況を知らせたところ、「寄生虫で重体(規制中で渋滞)」、と。笑うに笑えない変換ミスである。変換ミスもさることながら、前の定型文書をそのまま使用して、日付が何年も前のまま送付してしまうこともざらにある。
便利になった分、内容のチェックくらいはしっかりとしたいものである。とは言いつつも、そんなミスをするのが人間なのかも知れませんね。

(羽曽太郎)

2005年09月01日

●ご馳走様(ごちそうさま)

私たちが何気なく日常的に使っている言葉には、それぞれ語源や由来があります。
例えば、ご馳走様(ごちそうさま)。御馳走の「馳走」は、本来、走り回ることを意味し、そこから、お客の食事を用意するために走り回る意味となり、さらに走り回って用意することから、もてなしの意味が含まれるようになったとされています。
そして、そのおかげで食事がいただけたという感謝の意味から、「御(ご)」と「様(さま)」が付いた「ご馳走様(ごちそうさま)」となり、食後の挨拶語として使われるようになったのです。
金光教祖は、「何を飲むにも食べるにも、ありがたくいただく心を忘れるな」との教えを残されています。作物を育てる生産者、それを調理する人たちのご苦労があって、はじめて私たちの口に入るのです。
そして、「食」は、私たちにとって無くてはならないことであり、生きる基盤といってもいいでしょう。ありがたく頂き、そして今日も心を込めて言いましょう。「御馳走様でした」と。

(小笠原)

2005年08月01日

●「平和は、一人ではできない。しかし、一人が始めなければ、何もできない」

夏が来ると、マスメディアも競って「戦争と平和」を取り上げる。今年は特に戦後60年という節目だから、猫も杓子も「平和、平和」と言う。平和を祈らない宗教者はいない。しかし、その祈りにアクション(行動)の裏付けのないものは、平和の妨げになっても、平和の構築には程遠い。

私は世界宗教者平和会議日本青年部会の幹事長のお役をいただいている。先日、インドネシアで「アジア青年事前会議」があった。これは、来年8月に行われるWCRPVIII(第8回世界宗教者平和会議)への参加意欲を喚起する目的で開催された。

青年宗教者として「平和のために何ができるか」「平和のために何をするべきか」「平和のために何をしてはならないか」という視点に立って、喧々諤々の議論をした。14カ国68人の会議であったが、アジアのなかで、われわれ日本人がいかに「平和ボケ」をしているかを痛感させられた。「平和を言う」宗教者は多いが、平和ボケのなかでは空論である。

イザヤ・ベンダサンは「日本人は、安全と水がタダ(無料)で手に入ると考えている」と言ったとか。平和を希求している現実は、われわれが考えている以上に厳しい。宗教者は今こそ、現実を直視して、平和への道を歩まねばならない。マザーテレサが「愛のない世界とは、無関心である」と喝破したが、われわれの周囲を見るとき、「平和への無関心さ」が目立つのは、かなしいことである。平和の夏、戦後60年の夏を迎えて、こころから戦争犠牲者の御霊さまたちに慰霊と鎮魂の祈りを捧げ、ここからの一歩を踏み出したい。平和は、一人ではできない。しかし、一人が始めなければ、何もできない。

(三宅道人)

2004年05月01日

●想像力

神が人間にだけ与えたものの一つに想像力がある。昨年12月、イランで起きた大地震は数万人のいのちを奪い、多くの被災者を出した。戦争や災害だけでなく、貧困から路上で生活せざるを得ないストリートチルドレンやホームレスも増加している。彼らは家屋にあって布団で寝るというごく当たり前の生活さえ出来ないでいる。
金光大神は、『かわいそうと思う心が神である』と教えた。想像力とは、人の苦しみを見つめ、人の助かりを祈るように神から与えられたものである。想像力を駆使して『世界の平和と人類の助かりを祈る』、それが金光教を信仰する者の使命である。

(浅野善雄)

2004年04月18日

●愛すればこそ

4月になると、慶応大学の池田潔先生の話を思い出します。
3月末に初めての子が生まれました。早生まれの子は、学校に入ると、体力が劣り勉強も辛いことが多く、親心として4月2日生まれにして出生届を出すことがままあり、奥さんと相談して自分たちもそうすることにしました。
この話を側で聞いていた祖父が「この世の中は嘘で固めたようなもの。人を騙したりごまかして生きて行く。生年月日をごまかすのは、人生の第一歩から嘘をつくのを教えるようなものだ」と嘆いて叱ったそうです。この言葉を聞いて、親として真実の道を歩まねばならないと決心し、生年月日を正しく届けたそうです。 
教祖様も世間の俗説に従い、わが子の生年月日を変えようとしたことがありましたが、神様に叱られ、元に戻し、真実に生き、子供を不幸にせずにすんだことがありました。 4月、さまざまな門出の季節。勇気をもって真実の道を歩みたいものです。

(川上功績)

2004年04月01日

●平和をイマジン

ジョン・レノンの歌『イマジン』は、「国境のない世界を、そして人々が争いのない平和な暮らしをしているところを想像してごらん」と呼びかける。
そう言われれば、私たちには想像する力が弱まっているのではないか。飛び行くミサイルのかなたに泣き叫ぶ子供たちがいることを想像できない。経済制裁ゆえに乳もなく餓死する赤ん坊がおり、寒さに凍てつく人々がいることを想像することができない。
マーチン・ルーサー・キング Jr.は、" I have a dream…" と言って、黒人と白人とが手をつないで助け合う世界を夢描いた。
私たちも、世界の平和、すべての人の幸せという夢を思い描き、祈りとしていきたい。祈りは力であり、現実を動かす。戦争よ、終われ!

(田中元雄)

2004年03月01日

●父の顔

「そんな字も読めないのか」と言った父に、私は、「学校で習っていない字だから、読めないのは当たり前だ」と言い返しました。
今から40年以上前の、私が高校生だった頃のことです。
それを聞いて憮然とした父の顔を、私は今も忘れることが出来ません。むつかしい字の読めなかったことに、憮然としたのではありませんでした。字の読めないことを学校のせいにして、それを当然のこととしたことに言葉を失ったのです。
「むつかしい字というものは、自分で読む気にならなければ、いつまで経っても読めないぞ」。身の上に不都合なことが起きてきたとき、私は今でもあの顔に教えられます。

和泉正一